昭和44年04月24日 朝の御理解
御神訓 一、信心の心得
「天が下に他人ということはなきものぞ。」
是は理屈を申しますと、大変難しい事になるだろうと思います。けれども神様の目からご覧になれば皆んなが氏子。ですから私共全てはまぁ言うなら兄弟。そういう見地から致しますと、成程他人という事はない。天地の親神様を知らせてもらい分からせてもろうて、天地の親神様が氏子とこう仰せられる。これは黄ないもなからなければ白いもない。勿論黒いもないみんな神の愛し子である。ですからそういう見地から見ますと、私共はみんな兄弟だという事になるのです。
そこへなら教祖様は信心させて頂きます、氏子の事を特別に信者氏子とこう呼ばれた。只氏子というそこにこう何て言うですか、私共の漠然としたものを段々こう身近に感じさせて下さり、またそういう風に呼びかけて下さった。氏子の中の氏子と言った様な感じ。ですから教祖様が仰るその信者氏子だけぐらいは。本当に親身のものを感じ合えれる中に、ひとつならなかえればいけないという事になる、どこどこ教会の信者とこう。全教一新してそして全教一家の様にと三代金光様は願っておられた。
ですから確かに例えばここに何と申しましょうか。一つの対立と言った様なもの、まぁここに〇〇教とか、〇〇宗と言った様なこうありますと、矢張り金光教とこうまぁ本当言うたら兄弟なのですけれども、何とはなしにこう睨み合う訳じゃないけれども、お互いの足元を探り合う様な事すらがある。で何々宗が良い何々宗が立派であるとか、いや金光教が世界に誇る名教だとかと、自分の善がりな事をまぁ言う様になる。それが今度は同じ金光教でも、例えばこのうまぁなら例えて言うなら。
大阪の信心とか九州の信心とかと、こうとり上げて言われる。そうするとやっぱりあの、何とはなしに身びいきとでも申しましょうか、九州におる教会九州に、御縁を頂いておる信者は。何とはなしにこう固まる様な感じを受けます。まぁ事実そうである。それがもう少し小さくなると、まぁ例えば何々地区とかという事になったり、例えば甘木地区と久留米地区、もう身近になって来ると。もうそこら辺に何とはなしに、白々しいものが出けて来る。留米関係こちらへ。甘木関係はさぁこちらへと言う様に。
その何とはなしにそういうものが、こう水と油の様な感じがある。ですから漠然と天地の親神様は天が下に、他人というものはなきものぞと、是は漠然とじゃない。もう真実そうなんだけれども、私共はここんところを分かっておらんじゃない。何とはなしにそれを分かっておるんだけれども、まぁ言うならば親子兄弟、または従弟従弟半と言う様に、こう縁が薄うなって来るとですね、もう言わば他人の始まりと言った様な事になる、夫婦でもそうである。
縁があって夫婦になって、本当に仲睦まじゅういっておるけども、事一つ何か起こって参りまして、あの離縁と言う様な事になりますと、別れりゃ他人だからと言う様な事になる。私はあのそう言う様な考え方の中にですね、本当のいいものは育たないと思う。金光様の御信心でもそうです。何か問題があるとすぐに神様っちゃ金光様だけじゃなかもんじゃけん。又は金光様は何処にでんあると、合楽だけじゃないから、と言った様な事をそのう思うたり言うたりするのである。
是は例えば私段々そのう上から下へずっとこうそのう、他人という事はないのだけれども段々この様になるという事を申しましたが。だから結局はどういう事かと言うとです、先ずわが身におかげを受けてとこう仰る。先ずわが身におかげを受けて、そして後に人を助けてやれとこう仰るのだから、御理解の中にもありますが。先ず吾身に本当におかげを受けなければいけん。何と言うても一番大事なものは吾身である。もうどんな事を言うてもそれは親子でもそうなんです。
一番大事なのは矢張り自分だ。天が下に他人とはなき事ぞとこう仰るその前の所に、人の身が大事か吾身が大事か人も吾身もみな人と、言う様にいわゆるあの神心から生まれて来る、心の状態と言った様なものを下さってあります。ですけども是は人の身が大事か吾身が大事かと、言うならやっぱり自分の身が大事なんです。先ず自分がおかげを受けなければならない。そして初めて自分人の身も大事であるという事が分かる。人を助けるというても先ず自分が、助からなければならない。
だから結局例えて親神様の目からご覧になりゃ、みんな赤の他人というものはなき事ですけれど、もそれを段々なら日本とアメリカも日本もないけれども、やはり日本人は日本人びいきと言った様なものが、段々このあって同じ宗教でもそうである。三代金光様の様にもう全教一家と。ほらもう私の親を頂いておる所では、金光教の信心が一家になって、一家の様に睦まじゅう行って、一新して行かなければならんと言う様な意味、小さいもんではなくてもう全教。例えば信者氏子である。
信者氏子と言う事は世界中に信心を頂いておる氏子である。中にはキリスト教もありゃ仏教もある。教えに基づいて自分が助かり人の世が助かって行く、明るくなって行く極まって行こうと、する様な願いを持っておる者が全教である。信心の言わばある者とない者である。だからその信心のある者が打って一丸になって、世界の難儀に当たって行こうと言う様に私は頂いておる。それをまた小さく言うとなら金光教と言う事にもなりましょう。ですから上からずっと段々こういうのは分かって。
確かに理屈で分かればなら世界中人間同士というものがです。赤の他人という事はないのですけれども、そういうものがそういうものであるという事の、本当になら身内の者の洋な円満さというものが。例えば生まれて来る事の為に、先ず自分の心の中に先ず円満なおかげを頂かなければならんと。人の身も大事だけれどもより我身は大事であると。と言うことは我身が先ず助からなければいけないと。
どうでしょう天が下に他人ということはなき事ぞと、いうことを今日頂きこれ是は是だけの事だから、別に理屈で説けばそうでしょうが。天が下に他人ちゃなかろうが、天地の親神様の皆氏子じゃから、まあ兄弟だからというだけしか頂けん様な感じがしたです。ですから御理解を頂いたんです。そしたら「御理解79節」のね「商売をするなら、売り場買い場と言うて、元を仕込む所と、売り先とを大事にせよという」ところがここの所を頂くんです。ですから私共に関係のあるもの、私共の身近なもの。
私共の関係のある所だけぐらいは、一つ自分の身内と言った様な親戚と言った様な、兄弟と言った様な気持ちになれたらどうだろうかと。してみるとお客様もそういう意味合いにおいて、大事にしなければならんのだと。そういう意味合いにおいて、仕入れ先の方も、大事にしなければならんのだという事。これも矢張天が下に他人という事はなきと言う様な、大元の所からこう言う事に成って来る。そこから生まれて来る神心が、人の身が大事か我身が大事か、人も我身もみな人と言った様な事に成って来る。
そこにお互いにです一つ本気でここに、縁談という事について色々ここに御座います、家柄一筋を改まるより、互いに人情柄を改めよとこうある。いわゆる縁を作って行くと言う事である。お客さんと私共、仕入先と私共、商売をするならですよ。是はなら結婚と言う事でもそうです、赤の他人が一緒になって行く。ですからそこにお互いに人情柄を改めて行かなければです。具合よういかんのです。人情柄を改め様と努める所にです、お互いの言わば親切と言った様なものが出し合えるのです。
問題は人情柄を改めて行かなければならん、そこん所の例えば努力をする。そこから言わば何とも言えん人情というものがお互いに出し合えれる。いわゆる心身が出し合えれる。私は思うですねその人情柄が人情柄を改めて行けよとこう仰る。例えばもう近い将来に。私の大坪家と金光の古川家がまぁ親戚付き合いになる事になるでしょう、娘をあちらにやる事になる。私のなら娘婿という事になるこの頃御本部参拝させて頂きましてから、まぁ勿論あちらお父さんが戦死をしておられますから父親と言うのがない。
だから私がまぁ言うなら世の中に親と呼ぶのは私だけだという訳なんです。もう威智雄がどうしてあんな事ば言うたじゃろうか。後からそのお婆ちゃんとお爺ちゃんが、その笑って言いよりなさるとです。もう物を言わん男がですね。ようそんなんなその事を。いわゆるそのう人情柄を改めよと努めておるのです。もうそりゃあのう近所に尾道という。教会じゃありませんけれどももう大きな、それこそさぁ大祭と言うと一万人ぐらい集まると言った様なその所がある。
そこの先生がころっとその亡くなられた。糖尿病じゃった。それで私の事を私が糖尿病である事を知っておりますからですね、お父さん体だけは大事にして下さいって。とにかくまぁこの世でお父さんと言うのはもう貴方だけしかないのですから。どうぞ大事にして下さいて言うてそのう、その事をくれぐれもこう言う訳なんです。赤の他人でまだいわば他人ですけども、もうこれから縁を組んで行こうとしておるから、もうそういう人情が生まれて来ておる。
豊美が先日手紙をお礼の手紙を出しておる、この手紙出しおりますと言うて出しよりました、あちらへちょっとお爺ちゃん腰を悪くして休んでおられました、古川先生が。その時にまぁ豊美の実感としてです、本当にあのうおじいちゃんの背中でも、こう押さえてあげたいという気持が切にしたんだけれども、まぁそのうそれが出来なかった事が残念だったと言った様な事が書いてある。是から縁を作って行かなければならんから、そういう情が湧いて来るんです。
それからまぁそれその事が嬉しかったと言うてから、今度はそのお爺ちゃんがこう言いよりなさると言うて、お母さんからまた手紙が来てる。お礼の手紙が来たら又そのお礼がそう言う様にしてその情が細やかに、いわば古川家と大坪家の縁組が出来ようとし出来、まぁという事になったら、その様にしてその縁がお互いの人情柄というものが改めおうて行かれて、そういう事になって行きよる様にです。お得意さんだってそうでしょうが、新しいお得意さんが出ける。
お客さん私のお客さんと商売人であるならば、お客さん又は仕入先と言うのがです、そうして仕入れた買うてもろうたと言う様な縁が出けるのですから。そこから人情柄が生まれて来なきゃ。はぁあぁたもうあの仕入先からいっちょうんとその安うして、買おうと言った様な事だけではなく、あのお客さんからちっとウンと儲けにゃならんと、言った様な事ではいけない事が分かる。そういうその間柄というものが出来て来る、その限りだけにおいてでもです、お互い人情柄を改め合うて行こうじゃないかとこう言うの。
実を言うたら天が下に他人というものは無きと言うのだけども、是は余にもの大きな事。教祖様でもだから信者氏子と言うて、信心しておる者の上に信者という言葉を使うておいでられる様にですね。何教何様と言うでも言わば同じ、例えば信心によって助かって行こうとする者同士が、手を取り合うて行かなければならんけれどもです。ならお道の信者なら信者だけでも、本気で手を取り合うて行こうじゃないかと。せめてなら久留米地区なら久留米地区だけでも。
せめてこの教会なら教会の者だけでも、そういう人情柄を改め合うて行こうじゃないかと。そこから今まで気が付かなかった。今までとてもそういう事を思いも出けなかった事の中からです、良いものが生まれて来る。そこに何と言うでしょうかね情という物が通うて来る様になる。そういう心がね私は神様に通うと思うんです。それが例えば人情柄が神情柄になって来るんです。神情柄ね言うならば人間心が神心に、段々育って行くおかげを頂かせて貰うてです。
ここにその前にあります人の身が大事か我身が大事か、人も我身も皆な人と、例えば自分をある意味においては犠牲にしてでも、人の身が大事である事を願わせてもらえれる様になって来る。それこそお商売をさせて頂くなら、出血を売り出してと言った様な事を申します。損をしてから皆さんに奉仕するという訳なんです。それが只宣伝文句だけではなくて本当にですね、場合によっては損をしてでも喜んで貰える、と言った様な思いがその情に繋がってのそれ。
そこに私は言うならば損して得とれと言った様な、おかげが必ず繋がって来るとこう思う。ですからねお互い例えばならこうして縁が出けて来たのであるから。ですから例えてなら私は、私と古川の事の申しました様に。是から縁が繋がって行こうとする事にだけででもです、いう事によってお互いが人情を出し合うて行く様な心持にです、私はおかげを頂いて行ったら、いよいよ家庭が円満のおかげが受けられると思うんだけれど、何かちょっとそこに問題が起こって来るとです。
そういう事はもう更々忘れて、別れりゃ他人だからと言った様な事になりかねないという事、人間というものは。そこに情もなからなければ神心もない。人が助かって下されば、それこそ人が助かりさえすればと言った様なものが、只自分だけが良かれば良いと言った様なね、そこんところを一つどうぞまず我身が助からなければならんというのはね、自分人を押し退けて人は不幸になっても良い、自分が助かればというのじゃないんです。別れりゃ他人だからと言った様な考え方の中にはそれがあるんです。
人よりか自分が先ず助からなきゃならん。唯おかげに神様の機感に適わんのそういう心では。先ずその我身が先ず我身におかげを受けてという、いう助かりなんです。教えを頂けば頂くほどに、自分の身がはぁおお自分の思い違い考え違いが分かって来てから、有り難いという事が分かって来る、そこに自分の助かりがある。我身におかげを受けてと言うのは、そういうおかげを先ずおかげを受けて行かなければならん。それが言わば他人の上に。又は自分に縁のある者の上に、潤うて行かなければいけない。
天が下に他人という事はなき事ぞと教えられるからにはです、ほんにそうだ他人というものは世の中にはおらんのだと、分からせて頂いて言うなら他人じゃないという交際。他人じゃない兄弟としてのよしみと言う様な、思いやりというものが出し合える。それを神様がお喜びになるという事がそれがおかげになって行くという事になる。ですから天が下にという事よりか、あぁならという事が分かったらです。上からではなくて下の方から、先ず自分自身の心から救われ助かって行く事がね。
お得意さんにも響きゃ仕入れ先にも響いて行く。あっちはなかなか変わった人じゃと。初めて取引をしたがと、言う様な意味合いにおいてですね、その変わった人信心すれば変人になれと仰るが、その変人振りがその様な意味合いにおいて行く時にです、あの人にはもうその言わばつかませやら出来んと、言う様な言葉になって来るでしょうね。あっちが正直に行かっしゃりゃ、こっちも正直に行かにゃと、言った様なものになって来るでしょう。はぁもうあっちは油断な出来んと言うて、お互い警戒し合うてと言った様なものではなくてですね。そういう私は人情柄というものを。
自分の周囲から段々広げて行きたいとこう思う。それが天が下に他人という事はなき事という事になり。例えば様々なニュース様々な例えば報道を見たり聞いたり致しますと、世界の様々な世界のそれこそ隅々からです。様々な難儀なものあの様相と言った様なものをね。知る事が出けます。ほうどこには地震があったげな、どこでは大洪水があったげなと。どこでは戦争がありよると言った様なですね、そう言う様な事の上に。私でも段々思いを、自分の親戚にいわば火事があったなら火事があったと言や。
お見舞いにでも行く様な気持がです、おくられるとこう思うのです。本当にあの人情豊な生活。人情豊なお国柄とか又は家柄とかと言う様な。私は潤いのある。先ず私そして私の家庭と言う様なものを目指させて貰って、おかげを頂いて行く所からです、まぁ大きく申しますと、天が下に他人はなきと言う様な事にまで、それを広げて行く事が出来る。私共の人情柄を改めて行くと、言う事の為に先ず私自身の信心そのう内容に、言わば豊かな信心情操というものが、いよいよ培われて行かなければならない。
そして商売をするなら売り場買い場をとこう仰る、その売り場買い場の上にも大事にせろという事は、また大事にして貰わんならんからと言った様なものではなくてです。そこに縁が出けたのであるから売り場に、買い場にその縁をですね、私共がそこから縁が出けて来るのだから、お互いに人情を出し合うて行くと言った様なです、親身きと言った様なものが出来、まぁ是がまぁ私の過去の事を申しますと、自分の得意さんが出けると、もうその人は得意さんが商売がそこで出けると。
もうこの人は金光様の御信者にならっしゃった様な気持がするんです。私に私に信心があるからもう私の繋がっておるお得意さんは、もう金光様の御信者になられた様に、私は思うんです。ですからそういう思いがどんどん送られる訳です。そこにお導きが出来るんですお道の話を聞いて貰うね、ですから私のその持って歩いておる、そのお届け帳ですよね。それにお届け帳を一つ作った。どこどこにどういうお得意さんが出来たと言やあ、自分の家に親戚が一軒出けた様に思うて、朝晩その事んとこを祈らせて貰う。
今にして思うと矢張り今日の御理解を頂くと、そう言う様な事が分からんなりに出けておった様に思うのです、いわゆる赤の他人と思うておったのがもう私と、言わば商売の上でお得意さんにならせて頂いたら、もう他人ではないという感じなんです。その様にして、私は信心は進めて行ったらね、もっと潤いのある言うならば、おかげが頂けれるんじゃないかとこう思います。天が下に他人という事はなきものぞ。
唯それだけの事ですけれども、成程神様の目からご覧になりゃそう所じゃあるまいとこう思います。それを理屈で例えば申しますとねそれは、そのう本当言うたら細かい血が繋がっておると言う事にまでなって行くでしょうね実際は。人間の大元の大元の大元を私は、唯そういう理屈は抜きにしてです、お互い人情柄を改め合うて行く所に、赤の他人とは思われない。思われないとそこにはもうお互いがそこに情を交し合うて行く。
いわゆる親切を尽くし合うて行く。そういう働きかけが大事である。冷たい考え別れ他人だからとか。縁があっておっても、そのそういう考え方の中には、神様のお喜び頂けれるものは生まれて来ないと思う、どうぞ一つそう言う所に今日特に焦点を置いて。特にお商売をなさる方はです、そういう意味合いにおいてお得意さんを大事になさらなきゃいけません。いわゆる売り場、買い場を大事にしなければいけません。
どうぞ。